「丁寧な暮らし」への違和感について考えてみた

先日読み終えた「ヘルシンキ生活の練習」

在日コリアンの女性が子どもを二人抱え、同調圧力の強い日本を出てフィンランドのヘルシンキに生活拠点をかまえ、現地での日々感じたことを綴った本。

私自身が特に印象に残ったのは、この本の「おわりに」に書かれていることだ

消費する楽しみがないのは、労働時間が短く、税金が高い(=他人を雇うと高い)ことと同じだ。今ところ、ヘルシンキ市内のいろいろなお店に行っても、なかなか「お、値段以上。」(by ニトリ)のものに出会わない。何か欲しければ自分で作るほうが安上がりだし、とりあえず時間は日本にいるときよりずっとある。「ていねいな暮らし」が強制されている感じだ。

この一文を読んで、私は「それだよ、それ!」と膝を打った
(打ってないけれど、そしてこの表現はよく聞くけど、本当に膝を打つ人はいるのかな‥。ちなみに私はこういうとき、ものすごく頷いてしまうので、Twitterなどでは首がもげるほど頷いたとよく書いている気がする。実を言えば、この箇所にあったときにもめちゃくた頷いたが、もげるほどではなかった…どうでもいいけど)

2020年に49年暮らした東京の下町から、逗子に転居し、私の日常はやたらに家のことに費やす時間が増えた。
これはコロナやそれに伴うリモートワークも大きく影響しているのだけれど、そればかりではなくて、街の遊びが楽しい場所じゃないのだ、ここは。

周囲には海も山もあり、三浦半島の野菜も魚も美味しい、少し車で行けば養鶏場の卵も手に入り、葉山にはおしゃれカフェがある。

でも、それだけである。
飲食店は大半が小綺麗で美味しいが、その分なんだか印象が似ていて、65点〜80点ぐらいの店ばかり。以前の暮らしなら、最低点〜最高点のレンジがとにかく広かった。
ブラブラできる大きな本屋もなければ、主のこだわりで選ばれた本を置いてあるようなセンスのある本屋もない。
ニトリもなければ、ユニクロもない、私は越してきて数年経つのに未だに靴下を買う場所を見つけられず、今年の冬はついに靴下を繕ってしまった。もちろん車や電車で行けば、その手のものはある。
でも、都内での暮らしだったら、それらはちょっと出掛けたついでにいつでも手に入るものであって、私自身に車の免許がないこともあって、なんでわざわざユニクロやニトリのためだけに乗り物に乗るんだ?という気持ちにどうしてもなってしまう。

残念なことにおしゃれカフェは都内にいる頃から興味がない。
大体のおしゃれカフェの感想には、「とってもリラックスできました」「癒し空間〜」のようなことが書いてあるけれど、私にはその手のお店はお尻がもぞもぞした全く落ち着かない。落ち着くカフェといえば、私の中では「ドトール」か「ルノアール」である。
しかも、自宅でコーヒー豆を挽いて、コーヒーを淹れるようになったりすると、500円を超えるお茶代にどうにも高く思えて払えなくなってしまった。(ルノアールはさほど安くないが、私にとってはコワーキングスペース料を払っている感覚なので、お茶代という認識になっていない)

リモートワーク中心になったこともあり、家の中にいる時間が多いので感心はやはり家の中のことに向かう。できるだけ居心地をよくしたい。外食が減れば、家で美味しいものを食べたり飲んだりしたい。
外出は基本的に近所の散歩が中心なので、スーツもパンプスも必要なくなる。
戦闘服と無縁な世界に今は暮らしている。

戦闘服のコーディネート(夏編)

そもそも逗子の女性たちは、基本的に着心地優先、髪を伸ばしていても丁寧にブローする人も少なく単純に一本にしばっている人ばかり、伸ばしている理由はこまめに美容院に行くのが面倒だからなのでは?という気がする。
夏は街なかでもホットパンツにギョサン(ビーチサンダル的なもの)、冬はモコモコのダウンを着て、スノーブーツを履いている。(これは特に冬の海岸で散歩している人に多いスタイル)
化粧は日焼け止め塗って眉毛描いて口紅塗って化粧は終了‥という人が大半で、アイメイクしている人もチークを入れている人もほとんど見かけない。
だから、周囲を見ていても、オシャレをしたい‥、オシャレしなくちゃ‥という、欲望もプレッシシャーも生じない、そして買いたくなるような素敵な洋服も売っていない、だから興味が持てなくなるという循環なのだと思う。

コロナがすっかり収まって、「リモートワークなんですか?それ?」みたいになって、また都内に通うようになったら、またスーツも必要になるだろうけれど、きっと私はわざわざもともと買い物をしていた日本橋や銀座に行くんじゃないかと思う。
探せば横浜などにきっと贔屓にしていたブランドもあるのだろうけれど、どうも逗子に近いところにいると戦闘モードにならないので、洋服も選ぶ気になれない気がするのだ。

買い物に行かないからモノが増えない、買い物に行かなくて、近隣だけウロウロしているんだから、時間は都内にいたときよりずっと増える。
家の中のことに目が行く、だから、都内だったら面倒でありえないと思っていた鉄のフライパンを買って育てたりもしようと思う。(これだって、テフロンのフライパンをテフロンを剥がれるたびに捨てて、買うのが面倒だからというのがそもそも動機なのだ)

Weekly Review – week 18th, 2022

友人たちがSNSで梅酒をつけるのや梅干しを仕込むのを眺めていても、梅仕事をしようと思ったことは都内にいたときには、全くなかった。
でも、庭に梅の実が落ちていれば、なんとなく梅シロップを作ったり、庭にフキが生えていれば料理したりする。

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目の前の庭にあるからするだけで、これが車を出して買いに行くものだったり、徒歩圏内のスーパーで売っていたとしても、まずそういう手仕事はやらないと思う。

とはいえ、私が組織で働いていたときは、ゆっくりした暮らしをしたかったし、丁寧な生活にも憧れていたはず。何がちがうんだろう?

私が止めたいと思っていた当時の生活は、

  • いつもとっちらかっている住まい
  • 家の中がいつも乱雑で探しものばかりする生活。探して見つからないから何度も同じようなものを買う暮らし
  • 化粧品もお茶類も中途半端に使ったものがうじゃうじゃあって、またきちんと片付けていないから、再度使う気になれず何度も捨てては買い直して新しいものをまた使い始める生活
  • 高い服や靴を買っても、ろくにメンテナンスしないですぐにみすぼらしくなってしまい、また新しいものがしょっちゅう欲しくなるの繰り返し
  • 洗濯やクリーニングがマメにできないので、いくつも仕事用の服の在庫が必要になる生活。そのくせ、家ではいつもくたびれたパジャマ…。

こう書き出してみるとよくわかるけれど、丁寧な生活がしたいのじゃなくて、だらしない生活、やたらに物がある生活を止めたかっただけだ。
丁寧な生活をしたいというよりも、シンプルな生活がしたい‥というほうが近い気がする。

2000年代当時のコーチングのクライアントはとにかく忙しい女性が多かった。
仕事のシャツにアイロンを掛ける暇がなくて、会社の帰りに駅ビルでいつもシャツを買っている、ハンガーに掛けずソファや椅子にスーツを置いてしまうので、朝慌ててスーツを着たら、上と下が対になっていなかった失敗談‥など聞いては、共感したものだ。

そして、彼女たちは言った。「シンプルな暮らしなんて、時間のある人しかできないですよね。シンプルだから時間があるなんて、ありえない…」と。そして私は首がもげるほど頷いてその話を聴いていた。

それなのに気がつくと、私は梅仕事をしたり、靴下を繕ったりしていて、どうしてこうなった?という違和感を自分にも抱いている。
著者のいうところの「「ていねいな暮らし」が強制されている感じ」に強く共感するのはそれが目指して手に入れたものでなく、著者と同じく環境によって半ば強制的にもたらされたものだからだろう。

フィンランドで暮らしているからといって、誰もが手仕事が得意なわけでもなければ、家で過ごすのが好きということではない。でも、そもそもフィンランドは寒冷地だからそう長く外で過ごすこともできない。ましてやコロナ禍である。
著者自身はそういう生活も心が悪くないと書いているが「ていねいな生活」を目指してフィンランドに移住したわけではなかった。

じゃあ、その何がいいのかというと、心が静になることだ。たいしていいものはない。あってもなかなか買えない(税金がもうちょっと安かったら買えそうだけど)。心踊るようなショッピングセンターなどない、というか、モールはあってもそこに置かれている商品に心が惹かれない。おいしいレストランもそれほど見当たらない。何度も言うけど何かと高い。というわけで、欲望を刺激するもの出会えない。それは、わりと、心が落ち着くこどでもある。修行僧かよ。

「丁寧な暮らし」という言葉のイメージには、わざわざそういう暮らしを選び、それを実践している‥というイメージがある。
だから、周囲から自分のSNS投稿やブログを読んで、「すっかり丁寧な暮らしだね」というようなことを言われると、「うーん、ちょっと違うんだよな」と感じるのだと思う。

雑誌などで眺める丁寧な暮らしに登場する人々は、台所には保存瓶がたくさん並んでいたり、調味料や乾物がきれいに瓶に詰め替えてこれまたたくさん並べてあったり、手芸のための素敵なカゴがあちこちにあったりと、植木がたくさんあったりと、全くシンプルな生活でないことが多い。
時間があるからできるというレベルではなく、そういう暮らしが好きな人がそういう暮らし方をしているという印象を私は受ける。

私の場合の、今の「丁寧風な暮らし」は、選び取った暮らしじゃなくて、単純に周辺環境の影響が強いのと、歳をとって体力的に遊び回れなくなったり、ハードな仕事を引き受けられなくなったという身体的な問題に根ざしているから違和感があるんだろう。

とはいえ、10年前の慌ただしい生活に戻りたいかと言われれば、それはきっぱりと「No」である。
ただできれば、シンプルでモノの少ない暮らしはしたいと思う。
でもモノの少ない暮らしというのは、買い物に便利じゃないと難しいというのも最近気づいたことだ。
そして買い物に便利な場所というのは、概ね購買意欲をそそるものがたくさんあり、心は静かにならず、忙しくとっちらかった生活になりがちだ。
なかなか難しいものである。

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