フォーリン・アフェアーズで日本を考える

R+のレビュアーに選んでいただき、フォーリン・アフェアーズを読むチャンスに恵まれました。
正直なところ、フォーリン・アフェアーズはお値段もお安くありませんし、内容も硬派なので、こういう機会でもないとじっくり読み通せませんので、この献本は本当に有り難いです。

今回はアンソロジーということで、「日本」についての論文を1冊にまとめてあるものです。
読むのに丸々2日間(16時間)を費やしましたが、読んだ甲斐があったなーとしみじみ思う一冊でした。

論文は1986年のものから、2010年のものまで掲載されており、読んだ当初はなぜにそんな古い文献まで含める必要があるのか?と思いましたが、読んでみるとなるほど、この1986年に発表されたカレル・ファン・ウォルファレンの「日本問題ー異質な制度と特異性に目を向けよ」という論文は、今でも全く古くなっていない。
それどころか、このところ、私が常日頃のビジネス面で直面している課題「いったい日本企業のデシジョン・メーカー(意思決定者)は誰なのか?」ということとジャスト・ミートしており、大変興味深かった。
この論文の結論としてフォルファレンは、「日本には政治的ヒエラルキーは存在するが、これにはトップが存在しない」と明言し、この事実を認識しないためにアメリカは日本を理解できないとしている(文章としてははそう言ってないけど、私はそう読みました)
そうかアメリカの政治家も同じようなことで悩んでいるのかと思うと、笑みすら浮かんできた。日本人の私が苦労しているぐらいですからね、海外から見たら本当に不可思議だと思う。

今回のアンソロジーの中で、私が特に面白かったのは、ジョージ・パッカードによる「日米安全保障条約50周年の足跡と展望ーいまも安保はグラドバーゲンか?」とウォールター・ラフィーバーによる「超えられなかった過去ー戦後日本の社会改革の限界」。

前者は1971年生まれ、安保とか微妙によくわかんないーというお馬鹿な私にも、非常に分かりやすくて、しかもここが分かると現在の報道もよくわかるという非常にお得な感じ。

後者は戦後の日本社会を占領軍であるアメリカから見て論じてある。これはやっぱり未読のままになっているダワーの「敗北を抱きしめて」を何はなくとも読まなくちゃと警告を発してくれた。

私たちが習う学生時代の歴史の教科書は、古代から中世にかけての部分にフォーカスされ過ぎている、もしくは現代史をやるところが足早過ぎる(時間が足りないのか?)のではないだろうか?ここのところの空白が政治への無関心を産むのではないのかしら?と今回の読書から考えた次第である。

でも大人になってからでも遅くはない。
私たちはいつでも学べるのだし、大人になってからも学び続けることは自分の子供達(次世代)への責務でもあるのじゃないかなと思う。
子供達に訊ねられたときに、新聞に報道されている内容ぐらいはきちんと説明してあげられるようになりたいな・・・と私は思うのだ。(私は大人はそういうものだと思って子供時代を過ごしてきた幸せな子供の一人だった)

アメリカから見た日本はどう見えるのかを知るのに、非常に興味深い一冊。どの論文を選ぶのか、というところに目利きの善し悪しが出るのを見るのも面白い。
日本の日本人によるマスコミ報道とはまた一味も二味も違っている。

一つリクエストを上げるとすれば、ぜひどういう意図でこういう構成の号になったのか?というような制作意図なり、雑誌全体としてのメッセージが読んでみたい。これは知的好奇心じゃなくて、私的好奇心かな

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