Book Review:雑貨の終わり

著者の三品輝起氏の名前を見かけて、「どこかで聞いたようなお名前だな?」と、しばらく頭に残っていた。
歩いているときに、「ああ、夏葉社で本を出している人だ」とつながりを思い出した。
その少し前に1人で出版社を立ち上げたという夏葉社の島田潤一郎氏の話をこれまたどこかで読み、面白そうな出版社だな‥と少しだけ、インターネットの中を探してみたら、三品輝起氏の名前を見かけたのだった。

「考える人」の記事で、少し惹かれるものがあったので、「雑貨の終わり」を取り寄せた。

文章がとても落ち着いていて、静かなリズムがある。冷たくはないけれど、視点が対象物に対して少し離れていて、距離感や余白のようなものを感じた。
Instagramを拝見すると、なるほどこういう文章を書く人はこういう雑貨を選ぶのだ、当たり前だがしっくりくる。

軽い随筆だと思って読み始めたら、雑貨を通じて眺めた世界が鋭い観察力をベースにユニークな形で切り取られていて、その視点に色々と考えさせられた。文章は重たくないけれど、内容は少しもふわふわしていない。
(説明が遅くなりましたが、著者の三品輝起氏は東京の西荻窪で雑貨店FALLというお店を営まれている方です)

ここでは、私の中で特に印象に残った文章をいくつか紹介したい。

ここには、とくに宗教的な趣旨をもってつくられたわけではない小さな置物を、手に入れた者の想像力でお守りに見立てて愛玩するという、雑貨愛好家にとって、ひとつの理想的な関係があるように思う。雑貨を個人的なルールだけにしたがって偏愛することは、消費される宿命を背負った物にとって、なけなしの救いとなるはずだから。こういった物とのつきあいかたは、コーヒー豆を挽いたり、ヴァイナルをターンテーブルにのせたりする彼の日常を彩る儀礼性ともつながっているだろう。そこで大切になるのは、儀式をじぶんの意志で、じぶんだけのやりかたで、ひとしれずやらなくてはならないということだ。呪術的な物はむやみやたらにシェアしてはいけない。たとえばSNSという集合意識に囲われて、あるかないかもわからない他人の視線をつねに意識しながら生きる、という仮想の快楽を一度でもおぼえてしまうと、かけがえのないフェティッシュはだれかの欲望とともにゆれはじめ、混じり合い、何れ単なる消費財へと堕してしまうだろうから。

この文章は、著者が村上春樹の書斎の写真を見て、村上春樹の高度な雑貨感覚について書かれた文章。
「儀礼性」というのは、私の中でもよく出たり引っ込んだりするテーマだけれど、そこに雑貨を絡めて考えるというのは今までなく、改めて仕事部屋を見回してしまった。
そこにある雑貨と私には、何かしらの関係性があるようだし、自分の中の何かが露呈している。ひょっとすると本棚よりも自分が出てしまっているのかもしれないということに気がついた。

しかしいつも思うのだが、せまい自室にひろがる雑多な物のなかに無印良品の簡素な品をぽんと置いた瞬間の、えもいわれぬ悲しさはなんであろうか。それは私たちが追い求めるライフスタイルという言葉のもつ、ある種の空虚さとにている。

私の中にある「とりあえず無印」については、少し前に下記の記事にチラリと書いた。

Weekly Review – Week45, 2020

無印良品に私が求めているのは、「思考停止」と「イライラ停止」だと思っている。
何かしらの物を買った後にデザインが気に入らなくて、イライラさせられるというのは、私には結構ある。
見るたびにイライラするので、大体の場合は買い換えることが多い。で、そういう物を無駄にする自分、懲りない自分にまたイライラする‥ということがある。

一方で、そうデザインにこだわるタイプでもないので、そういったものを広範囲で探し回るエネルギーはない、で、こういうときに「とりあえず無印」を買えば、必要なものが揃い、それ以上はその物について思考停止できる。そしてその簡素なデザインにイライラさせられずに済む。
私にとっての無印良品とは、そういうもの。

私の捉え方自体が、そもそも空虚といえば空虚。そしてとても安易だ。そしてそうなりがちな存在でもあるのだと思う、無印良品というものは。
時流を捉えるということにすごく長けた組織なのだと思う。色んな意味で過剰ではない、そして一方で無印なら失敗しない‥という安心感がある。
あちこちのショップで色々と探すにはエネルギーと情報が必要だし、一方でバラバラに選んできたその組み合わせはセンスが良くないと、とんでもないことになる。無印ならそれらはすんなり避けることができる。

無印良品でもパタゴニアでもいいけれど、消費者化をオルタナティブな消費で、いいかえればべつの正しい雑貨化で書きかえていく、といった良貨で悪貨を駆逐するような考え方を、臆することなくいいはなつ巨大企業の登場をどうとらえるべきなのかについて、われわれはまだ答えをもたない。

この文章には少し頭をガツンとやられた気分にさせられた。
これはしばらく頭の中に残りそう。

陶芸というジャンルが背負っている歴史や伝統、手仕事といった価値はみるみるうちに弱まり、作家物の器とミッキーのあいだに広がる大きな違和感が、ひとびとの購買欲をうばっていく。
 そしてなにより、古今東西、聖も俗もこえ、あらゆる雑貨をあつかうことにこそ雑貨屋たるレゾンデートルであろうなどと豪語していた私の店が、たった一匹の鼠が紛れこんだだけで、いとも簡単に調和がくずれさっていくさまを目の当たりにしてしまった。そのショックは店の歩みをぴたりと止めた。あなたが想像しうる多様性などたかがしているのだ、とミッキーにいわれているみたいだった。

目の前に光景が浮かぶような文章。
このミッキーは電報についてきたもので、諸事情あって陶芸作品とともに店内に飾らなくてはならなかったという背景があった。

確かにあのキャラクターを目立たなくできる展示方法って思いつかない。
あの赤・黄色・黒というコントラストもスゴイのだろう。

ミッキーの強さはすごい。
私はディズニーランドもその手のキャラクターものも基本的に興味のないタイプだ。
キャラクター的には、私はドナルドダックのほうがまだ好きなのだが、ディズニーランドでのスターは、ミッキーだ。一歩そこに足を踏み入れると体感できる。
私自身、出張でフロリダのディズニーランドに行ったときに、娘にミッキーのお土産を結構買ってしまった。娘はディズニーのキャクターに全く興味がない上に、アメリカのミッキーは日本のものよりも目がつり上がっていて怖いので、全く喜ばなかった。そしてそうなるだろうと土産物屋で私自身もわかっていたのに、夢の国の魔力はすごく、ミッキーのグッズがものすごく魅力を放ち抵抗できなかったのだ。

この本には著者が修学旅行でディズニーランドに行った話も出てきて、おや?と思う。どうもその描写を読む、私より絶対に彼の年齢が下だからだ。
著者紹介の欄を見ると、著者は1979年生れ、1971年生れの私は8歳も年上だった。
文体の感じと文章の内容から、年齢は上の方だと思っていたのでなぜだか少し慌ててしまった。

全体として、自分好みの読書の秋にふさわしい良い本だった。
次はもちろん、この方の夏葉社の「すべての雑貨」を読んでみたい。

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