小さな失敗

このところ寝しなに、井上ひさし氏の「十二人の手紙」という手紙にまつわる短編集を読んでいる。

新聞広告で目に止まり、Kindle版が出ていないようだったので、即座に買うことができず、先日、神保町に出かけた際に三省堂書店で見かけて購入した本だ。

久しぶりに紙の本で小説を読んでいる気がする。
小説類は、ストーリーがあるので頭に入りやすく、且つ読むスピードも速いので書籍が溜まりやすいため、私にはKindleが適していると思っている。
以前の暮らしなら、自分が読んだ小説を読む家族がいたが、そういうことがなくなったのも1つの理由かもしれない。

大学でデザインの勉強をしていると、どうもデザインというのはトータルで考えなくてはならない‥ということがわかってきた。
一般にデザインと聞いて、思い浮かべるのはグラフィックデザインだと思うのだけれど、Webはともかくポスター製作などは紙質やその大きさなども与える印象は全く違うし、どこに貼られるかでも随分と異なってくる。

授業を受けていて「え?そこまで考えるの?」と感じることがとても多い。

大学に入って最初に気づいたことに、どうやら私はやることなすこと、かなり「雑」だということだ。
もともと自覚はあったけれど、実際にスクーリングで実技などをしているとこの「雑」というのは、この世界においては致命的に適性がないということだな‥というのがよくわかった。
そもそも雑な人が大学には全く存在しないので、ものすごく目立つ。私が普段いる世界は度合いの差はあれ、私同様に雑な人がそれなりにいるのだが‥。
だから、これまでこういった美術系に縁がなかったのか‥というのもよくわかる。

さらに、最近になって気づいたことに、「モノをよく見ていない」というのがわかってきた。
何を見てもものすごく大雑把に見ている‥具体的に言うと、例えば文庫本なら文庫本でざっと見て、あとは自分の記憶を頼りに「それはこうだった」と思い込んでいるので、細部を全く見ていないのだ。
これもデザインやらモノづくり、美術の世界ではかなり適性がない‥ということだろう。

この世界で飯を食おうなどとは、入学当初から今に至るまで毛頭ないけれど、それでもせっかっく気づいたのだから、少しはそこを意識してみると、モノの見え方と関わり方がこれまでと変わって、面白いのじゃないかな・・大げさではなく人生それだけで結構変わる…と思っている。

話を本に戻す。
よくわからないけれど、装丁やらエディトリアルデザインやらタイポグラフィというような要素が組合わさった本のデザインというのは、なんとなくデザイナーの人にとっては憧れの仕事や依頼されてみたい仕事なんだな‥というのが大学でわかってきた。

確かに「本」というのはその存在そのものが美しいものだし、考えどころも多いし、まさにデザインの総合格闘技だろうと思う。

で、話を冒頭の小説の話に戻すと、今読んでいる中公文庫はももともと好きな文庫銘柄(?)で、どこが好きなのか?とか考えて、フォントの使い方や文字の大きさを凝視したり、カバーを外したりして触りまくったりしている。

文庫本にはよくあるけれど、最後の数ページにその本の著者の書いた他の本の紹介やその出版社の出しているその他の本の紹介などが掲載されていて、久しぶりにこちらもじっくり読んだ。
Kindleだと、この本を読んだ人は、その他にこんな本を読んでいます…みたいな紹介があるけれど、あれはおそらく購買データに基づくものだろうが、文庫についているのは、出版社で選んだものだから、随分と異なる。

10代の頃は、この巻末の紹介を頼りに次に読みたい本を見つけていたな‥と思い出す。
もちろん当時も新聞書評もあったし、「本の雑誌」のような書評誌も愛読していたのでそういった意味での他者のレビューを読んで興味を持つことはたくさんあったけれど、そのレビューに取り上げられるのはあくまで有識者に厳選された本だったので、そう数は多くなかった。

今のようなAmazonにかなり広範囲の本に何かしらのレビューや★評価がついているなんて、想像もつかなかった。

他人のレビューは参考になることも多いけれど、ひょっとするとある本を購入して読み終わってから見るべきものなのかもしれないな‥と思う。
そうしないと、食わず嫌いになってしまったり、安定した評価の本しか読もうとしなくなってしまうかも。

買い物も飲食店選びもそうだけれど、そういうところで小さく失敗するのって結構大切なのかもしれない。

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