形見分け

日曜日から気圧の影響でひどい頭痛が続き、ようやく床を上げられた水曜日。
家の掃除も洗濯も滞っていて、何から手を付けようか悩むけれど、毎月1日と15日は神棚のセット(お水、お神酒、米、塩)を取り替えることにしているので、まずはそこから。

神棚に置いてあるダイヤのネックレスを革袋から出して眺める。
夏に母が持ってきたものだ。
母の知り合いの方が亡くなり、形見分けでもらったものだそうだ。
とても良い品なのだが自分はしないので、ノンノン(私の一人娘30代前半、2人息子の母親)にどうかと思って持ってきたという。
ちょうどノンノンはその時期が誕生日だった。

デザイン的にノンノンの趣味には恐らく合わないのと、そもそも亡くなった方のネックレス(それも娘が全く知らない人の)ってどうだろう?と思い、「うーん」と唸っていると、「じゃぁ、あんたが使いなさいよ。そうすればいずれノンノンのところに行くわけだし…」と置いていかれた。

これまた「うーん」である。
私にとっても亡くなった方は知らない人だし、そもそも外出も減っていてネックレスをつける機会も減っている。
とはいえ、亡くなった方はきっと大切にしていた品なのだろうし…と悩んだ末、銭洗弁天で洗ったお札と一緒に神棚に置くことにした。
お祓いというわけではなくて、置くのに最適な場所が他に見つからなかった。
置いてみたらなんとなく収まりが良かったので、きっとネックレスも喜んでいるに違いない、何しろ家の中で一番静かな場所だし、ここなら無くなることもない‥と思うことにした。

それきり今朝までダイヤのネックレスを触ることはなかったのだが、なんとなく今朝は気になって中を確認した。

母から詳しいことは聞いていないが、母の知り合いだとするとそう若くに亡くなったわけではないだろう。
ネックレスの持ち主は、今の私と同じ年齢の52歳のときにどんな暮しをしていて、自分は何歳ぐらいで亡くなると想像していたのかなとふと思う。

形見分けがあったということは、その人が大切にしていたものを把握している人がいたということだ。
この先に形見分けというしきたりは残るだろうか。
持っているモノが必要なくなったり、他のものに興味が移ればこれまで持っていたモノをすぐに捨てたり、売ったりする今のような時代、1つのものをずっと大切にするという人は減っている。
そもそも自宅や病院で亡くなる人よりも、施設で亡くなる人が増えているだろうし、近親者がなく単身で亡くなる人はこれからますます増えそうだ。

今は亡くなる人が一番身近に持っているのは、携帯電話なんだろうが、携帯電話は近親者が必要なデータを確認し、移行したらきっと処分するだろう。

今日から11月。今年もあと2ヶ月。
今年は訃報に接する機会が多かった。
自分が葬儀に参加するほど親しい人ではなかったが、親しい友人のご家族だったり、過去の取引先の方だったり。
それから親しい友人やご近所の方が大病したり、闘病生活に入ったりという知らせも多かった。

そういう年回りなのだろう。
そしてこういう知らせはもっと増えていくのだろう。

朝の日差しの中で、ダイヤのネックレスを見ながら、自分や周りの死についてつらつらと考える。
家の中を見回しても、自分には形見として残せるようなものはなさそうだ。

トリミングサロンに連れて行かれたくるみ(ミニチュア・シュナウザー 5歳)のボールが、縁側の端っこで日向ぼっこをしているのが目に入る。

くるみが生きている間だけは、元気でいないとな‥と改めて自分に言い聞かせる。
さて、朝ごはんに夫が作って行ってくれた豚汁を食べて、家の中が居心地良くなるよう掃除をしよう。

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